イントロ🎵〜第一声でグッと!くる曲(TT)
数多くのオフコース時代の曲の中で、海の曲はほとんどヤスさん(鈴木康博)の作品♬だと記憶している。それはほとんど知られていないだろうけど、AORなら小田和正より、ヤスさんが得意なのだ。(. ❛ ᴗ ❛.)ヤスさんは60’sのアメリカン🇺🇸ポップス🎶や、ザ・ビートルズ🇬🇧が好きでギターを始めたからだ。
例えばこの”潮の香り”は、湘南海岸沿い🌊のR134からの風景を歌っている曲で、行ったことのある人は分かると思うが、湘南海岸の江ノ島の風景と、遠くにうっすらと見える葉山の町にマッチしていて、非常に心地良い爽やかなAORサウンド♬になっている。
オイラが、1982年当時、ディスクポート高槻店に勤務していた時に、隣の売り場のオーディオ売り場を壊し、100インチのプロジェクターを使ってオフコースのビデオコンサートを初めて開いた。1982年7月1日はオフコースの14枚目のアルバム『I Love You』がリリースされた時だった。オフコースが、全盛期を迎えていた。
このアルバムの予約特典として、ビデオコンサートの招待券を付けた。それはそれは大盛況!で、150人を軽く超えるファンが押しかけ、3か月後の1982年9月29日、TBS系特別企画番組で放映されたオフコース・スペシャル番組『NEXT』のサウンドトラック・アルバムの予約に繋げた。ナイス!✨なタイミングだった。
売り場にはオフコースのアルバムやステーショナリー、タオル等のグッズ販売も同時に平台を並べ、見事に全品完売‼️となった。
可笑しかった(≧▽≦)のは、オイラがPOPカードにマジックで、”オフコース“と、書いたカードまでもが「キャーキャー‼️🤣🤣」と、奇声を発しながら取り合い!になっていたくらいだから、当時のオフコースの人気はとてつもないものだったと思う。特に小田和正は『神』であり、神格化🙏されていた。大型プロジェクターに映る小田和正に向かってファンの女の子たちは「キャーッ‼️🤣🤣小田さーん‼️」と、叫んでいたくらいだ。でも、本来、それが正しい🎦映画の見方だと思う。感動は素直に表現すればいい!それが例え、映像であってもだ。例えば、映画のエンディングでとても感動( ꈍᴗꈍ)しているのに、👏👏拍手が出来ない自分が歯痒い…
ビデオコンサートの放映が終わったあとも、ドーパミンをドバドバ出しまくった女の子👧👩たちがグッズの取り合いになっているのを見て、オイラは俯瞰してその光景を見ていた。
「オフコース最強‼️やな!(‘◉⌓◉’)」オフコースの『NEXT』のアルバムの予約は100枚を超えるだろうし、しばらくはオフコースのレコードや関連グッズを売ってれば予算は達成出来る( ̄ー ̄)ニヤリ!と、確信を持った。
オイラはこの曲は、当時、脱退を考えていたヤスさん(鈴木康博)に小田和正氏が贈った曲🤍だと思っている。『I Love You』の、1つ前のアルバム『Over』の8曲目に収録されている。そう考えると、この『Over』のタイトルも意味深やね…🤔
オフコースの原点。ファースト・アルバム『僕の贈り物』(1973年6月5日リリース)のアルバム。
そんなオフコースの記念すべきファースト・アルバムで一番好きな曲がこの”でももう花はいらない“なのだ。ヤスさんの作詞作曲で、The Beatlesの超名曲✨”A Day in The Life”のリンゴ・スターばりのドラムスがとても印象的だ。小田はピアノ、ギター、鈴木はギターが担当楽器でアレンジャーとして参加した重実博がベース、矢沢透(アリス)がドラムで、基本的にこの4人のバンド形態の演奏で制作されている。
やはりヤスさんもビートルズの影響 を受けていたんだろう🤔。そう思って改めて聴くと、曲も少し似ている気がしてくるから不思議だ。多分、こんな事を言っているのは日本で俺くらいなものだろうけど…🤔気になる…ヤスさんに、詰め寄って聞いてみたい(笑)
【鈴木康博がオフコースを脱退した理由】
1980年にリリースされた”さよなら“で、大ブレイク💥したオフコースは、それを境に人気を急拡大し、日本音楽業界の中でも大きな存在になっていた。その過程で、オフコースのイメージを確立するために、バンドは小田和正を中心に据えて活動していく方針になった。鈴木康博はビートルズやローリングストーンズのように、枠に囚われず様々なことに挑戦したいという気持ちで活動していたが、その方針の決定により枠にはめられたような気持ちになり、”オフコース=小田和正“というイメージ戦略に合わせるのが困難になったと明かしている。また、小田和正の楽曲以上に、大衆に受け入れられる曲を作れないジレンマもあり、精神的にもしんどい思いを抱えていたことから、ブレイク‼️と時を同じくして「もう辞めたい」という気持ちを吐露している。
その後、「オフコースに自分の居場所はない」「自分の音楽がやりたい」という思いが強くなり、1982年に脱退という結末を迎える事になる。脱退理由として“方向性の違い”と一括りにされることも多い鈴木康博の脱退だけど、このような葛藤があって脱退の道を選ぶことになった…と言っている。
紛れもなく、オフコースは鈴木康博サウンド♬でもある。
ヤスさん、小田和正とオフコースを語る。