❝ボヘミアン・ラプソディ❞は、全英🇬🇧シングルチャートで9週にわたって第1位👑を獲得し、1976年1月末までに100万枚以上の売上を記録した。わ
1991年のフレディー・マーキュリーの死後に再発売され、5週連続で1位👑を獲得し、イギリス🇬🇧で3番目に売上枚数が多いシングルとなった。同時に同一のアーティスト、同一の楽曲が2度全英🇬🇧シングルチャートで第1位👑を獲得した唯一の例ともなった。
1位)エルトン・ジョン「キャンドル・イン・ザ・ウインド〜ダイアナ元英皇太子妃に捧ぐ」 1997年
2位)バンド・エイド「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」 1984年
3位)クイーン「ボヘミアン・ラプソディ」 1975年
4位)ウィングス「夢の旅人」 1977年
5位)ジョン・トラボルタ&オリビア・ニュートン・ジョン「愛のデュエット」 1978年
6位)ボニーM「バビロンの河」 1978年
7位)フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド「リラックス」 1983年
8位)ビートルズ「シー・ラヴズ・ユー」 1963年
9位)ロブソン&ジェローム「アンチェインド・メロディ」 1995年
10位)ウェット・ウェット・ウェット「愛にすべてを」 1994年
1970年代。ロンドンのライブハウスに通っていたフレディ・マーキュリーは、3人の仲間らと共にバンドを結成し、アルバムを制作する。メンバーの個性や挑戦的な試みによって彼らは一世を風靡するが、フレディは次第に孤立していく…
ちょうど今から、6年前に公開となった映画🎦『ボヘミアン・ラプソディ』観た人も多いだろう。フレディーをあまり好きじゃない人も映画を観れば、フレディーがどういう人なのか解る映画だ。おいらは若い時のフレディーが苦手だった。剛毛ロン毛の青々とした髭剃り後に胸毛にステージ衣装の全てが苦手だった。
そこで、フレディー・マーキュリーとはどういう人なのか調べてみた。✏️
⚪️フレディ・マーキュリーは卓球やボクシングが得意だった。
🤠 器械体操が得意かと思ってた👀!
⚪️彼のファッションセンスは両親を驚かせた。
🤠 エルトン・ジョンが師匠やったん?🤔
⚪️クイーンのロゴをデザインした。
🤠 へぇ~
⚪️リンダ・ロンシュタットとブロードウェイで共演しないかと誘われたがしなかった。
🤠 もったいない🥶
⚪️裸で歌うのが好きだった。
🤠 観ればわかります😁
⚪️エルトン・ジョンとロッド・スチュワートとでスーパーグループを結成しかけていた。
🤠 エルトンもタイプじゃなかった?
⚪️ジョン・レノンを敬愛していた。
🤠 やはり…🤔
「ボヘミアン・ラプソディ」はクィーンというバンドに対する私の見方を180度変えた名曲です。当時のクィーンは(フレディのことではないですが)ルックス先行で日本の女の子達に大人気のアイドルバンドと思い込んでおり、「キラークイーン」でやっと欧米ても人気が出たが、この曲も妙にオカマチックで私は受け付けられませんでした。
そんな時ビルボードのチャートを演歌のようにジワジワ上り続けていた「ボヘミアン・ラプソディ」に私は完全に心を奪われました。「天国への階段」のような美しい旋律で始まったかと思うと、ブリッジにはオペラ風のメロディーが展開し、その後一転して、カッコいいロックンロールが鳴り響いたかと思うとエンディングでは再び美しいバラードに回収していくという、当時としては画期的な複雑な展開の曲で、彦摩呂なら「この曲はロックの名曲の幕の内弁当や!」と驚嘆したのではと思われるくらいの驚きを私にもたらしてくれました。バンドに対する強固な偏見を一発で打ち砕くほどこの曲には破壊力があったんだと今では考えています。50年以上、洋楽を聴き続けていますが、このような経験はあまり思い当たりません。
実は昨日偶然この曲をカラオケで歌ったのですが、これも何かのお導きなのかもしれませんね。
当時のフレディーの厳つい顔に剛毛ロン毛に、髭剃り後が青々とした顔が苦手で、避けていたバンドだった。
大学生の時にラジオから流れてきた”バイシクル・レース”が、「バイセク(バイセクシャル)」と、聞こえて仕方がなかった。ロックでもオペラ的なコーラスや展開もイマイチ好きになれなかった。それが今では、”IMAGINE”や”My Love”より上に位置しているのが「おいらも大人になったな!」と、感じられずにはいられない。