あまり知られていないこの桑名正博のナンバー🎶は、春っぽくて👖の後ろポケットに手を突っ込んでタップを踏みながら歩きたくなるような、軽快でちょっとジャジー♬なナンバーだ。🌞クラリネットが春っぽさ🌷を醸し出す…
本当にMASAYANは歌が上手い!(≧▽≦)癖スゴ!やけど…😁
桑名は、1967年には芦屋の甲南中学校⇒甲南高校に在籍していたので、なんとなく距離の近い感じのするミュージシャンだ。1953年8月7日生まれなので、俺より歳は3つ年上だった。2012年10/26に他界されたので、かれこれ彼が亡くなってから既に干支が一巡してしまった。『10年ひと昔…』というが、本当にそうやね。
あっ!とい間に10年が過ぎてゆく…「ちゃんと大事に生きなあかんな…」と、つくづく思う今日この頃だ。
70年代に大阪でロックバンド『ファニー・カンパニー』として頭角を現した桑名。当時、粋に感じた先輩格の裕也が“東のキャロル・西のファニカン”として、矢沢永吉のいたキャロルと並べてみせ、背中を押した。もっとも当時は、「“成り上がり”の矢沢に対して、父親が実業家で“ボンボン育ち”の桑名は器量不足」と揶揄する音楽関係者もいた。
しかし、耳の肥えてる音楽通は、サディスティック・ミカ・バンドが、ジャパニーズ🇯🇵のロック黎明期の最先端にいることを知っていた。
そんな中、東京のプロデューサーに見出された桑名は、77年にソロとして”哀愁トゥナイト“でデビュー✨ヒットチャート💹を駆け上がろうとした矢先に大麻取締法違反とコカイン所持などで逮捕される。懲役2年執行猶予3年の有罪判決。東京での足がかりを全て台無しにした。 「収監中に高い格子の窓から差す陽だまりから着想したのが”月のあかり“で、桑名の作った原形に盟友の下田逸郎が詞をつけた、“第二の原点”といってもいい曲」1978年に発売されたアルバム『TEQUILA MOON』に収録。多くの人から愛され続けている桑名正博のスタンダードナンバー。 本人が一番好きな曲という事で、1988年にセルフ・カヴァーし、念願のシングル・カットもしています。秘密のケンミンショーでは、40過ぎた大阪人なら、誰でも歌えるカラオケの定番ソングとして紹介された。もちろん、オイラは、誰よりも早くラウンジで披露した。
桑名自身、大阪府警の某署にいたときの思いを2007年の取材でこう明かしていた。「麻薬取締官が毎日、署まで迎えにきて、一緒に吸ってた仲間のことを言え、言われるねんけど、友だちを売ることはでけへんやん。取締官は『あほやな、桑名君がかばってる奴がしゃべったから、君がここにおるんやないか』言うけど、それは僕のルールに反する。そのうち、取締官があきらめたんか、「暇やろ…」いうてギターを持ってきてくれるようになってん」
足下を見つめ直し、這い上がった桑名は、79年7月にカネボウのCMキャンペーンソング”セクシャルバイオレットNo.1″で、オリコン1位👑を獲得!その年12月には日本武道館コンサートを成し遂げ、名実ともにナンバーワン‼️になった。
「一緒に吸ってた仲間のことを言え、言われるねんけど、友だちを売ることはでけへんやん⁉️取締官は”あほやな、桑名君がかばってる奴がしゃべったから、君がここにおるんやないか”』という一節に、オイラも同じような事を経験している。相手は警察官ではなく(笑)学校の風紀生活指導の先生だった。
オイラは高校の入学とともに喧嘩が強くなりたくて柔道部🥋に入部した。夏の合宿の時に、煙草とパチンコを先輩に教えてもらい、合宿中に煙草を吸っていた。その事が何故か学校に知れて、風紀指導の先生に呼び出され、事情聴取されたのだ。その教師は学校で校長、教頭に次ぐNo.3の地位の教師。何故バレたかというと、同じ柔道部の同級生のSが煙草を刷ってるのを先生に見つかり、俺も煙草を吸ってたことを先生にチクったのだ。俺は観念して煙草を吸ったことを自白した。
教師「なぁ、斎藤!他に煙草を吸ってた奴、言ってみ?」
オイラ「そんなん言えません」
教師「あほやな、お前が庇おうとしてるヤツが喋ったから、お前がここにおるんやないか!」
オイラ「そうかもしれないすけど…俺は友達を売るようなことは出来ません」
教師「そうなんか…ほな、お前だけ停学になってもええんやな?」
オイラ「エッ⁉️やっぱ停学ですか??(゜o゜; でもそれはしゃあないです…😮💨」
教師「よっしゃ!解った!斎藤!お前停学覚悟しとけよ?職員会議にかけるから処分は後で連絡する…」
その二日後、俺はそ風紀指導の教師の部屋に呼ばれた。俺は停学を言い渡されるのを覚悟した。
教師「斎藤、今回のお前の処分は、俺の判断で会議にはかけなかった。それはな、お前が自分を犠牲にしてまで、友達を庇ったことに俺はお前は結構いいヤツだな…と思った。だからそれに免じてお咎めなしにした。だからもう学校で煙草は吸うなよ⁉️次は許さんからな(笑)」
そういうことだった。先生もええとこあるやん!(≧▽≦)
忘れられない数少ない教師のありがたい言葉だった。
その数ヶ月後、今度は三宮のパチンコ店の新装開店の時に、風紀指導の先生達の三宮界隈の見廻りでパチンコをきているのが見つかり、出した3000発(6000円分)の玉をすべてお菓子に代えさせられた😁。大きめの袋にチョコやドロップばかりで2袋にもなった。何故かその時も停学にはならなかった。その時思った💡!いつもなら煙草を吸いながら打ってたけど、その時はたまたま終了前のラッシュ💥に入っていたので煙草は…吸ってなかった。ε-(´∀`*)ホッ!そして景品の一袋、風紀の先生にあげれは良かった…と!この前のお礼に…(*ノω・*)テヘ!
世の中には侠気のある先生もいるものだ。そんな素晴らしい先生のお陰で、オイラはグレることなく楽しい高校生活を過ごせた。
その先生は金田一秀穂先生にそっくりな顔をしていた。テレビで金田一先生を見る度に、その先生の事を思い出す。
イントロと間奏のテイストがなんとなく井上堯之のメロディ〜ぽいね。ショーケンの顔を思い出すよ。
数年前の高校の同窓会で、俺をチクったSと再会し、その話をすると「俺、そんな事言ってない!」と、言っていた。しかし俺は、先生の言うことを信じていたので間違いなくSのせいだと、確信していた。男気のない奴っていうのは、往生際も悪いものだ😁。俺は全然怒ってなかったのに…あの時だって…
“あー青春は〜燃える陽炎かぁ〜”
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