Rockにはカッコいい曲は沢山あるけど、Soul&Discoにも数多く存在する。
まずは”鉄板”ポップ・ダンス・チューン❝ラブ・マシーン❞メロディアス・グルーヴが最高‼️🤩
この頃、一緒に住んでいた仙台のおばあちゃん『佳和は、お金もないのにダンスホールばっか行きよって‥さて小遣いでもやっぺ!👵』と、❝♪She’has just a 老婆心🎶❞
1972年にミラクルズの大看板、スモーキー・ロビンソンがグループを離れてしまってから3年目にして生まれた大ヒット曲‼️がこの❝ラブ・マシーン❞ スモーキーはベリー・ゴーディーの右腕としてモータウンの副社長をつとめ、テンプテーションズ、メリー・ウェルズなど他のアーティストのプロデューサー、ソングライターをやっていたので、ミラクルズとの両立が難しく、以前から脱退をした。代わりにグループに入ったのがビリー・グリフィンというまだ22歳の美しい声を持つ若者…
スモーキー・ロビンソンが作ったミラクルズの上品でソフトなイメージを保ちながら、ビリーの特質を生かすためにスウィート・コーラス・グループのスタイルで作品を作るが、いまいち成功しなかった。そこでジャクソン5のヒット曲を手がけたソングライター・チーム”ザ・コーポレーション”のひとり、フレディ・ペイン(フレダ・ペインと呼んでいた)がプロデュースを手がけるようになり、グループは少しずつグルーヴ感が目立ち始め、1974年に❝Do It Baby❞が全米🇺🇸13位まで上昇する💹のヒット‼️になった。
そして1975年に❝ラブ・マシーン❞が全米🇺🇸No.1👑の快挙!となった。今までのミラクルズのイメージを180度変えたのだ。おいらの好きな❝ラララ〜♪❞のコーラスがサビの役割を果たした画期的な曲だ。
18歳のおいらは、三宮にあったディスコ🌐✨️『チェリーレーン』に、1週間に2回は行くほどのディスコ・フリーク🕺になった。この❝ラブ・マシーン❞がかかったら速攻🏃フロアに出ていってミラーの前のポジションをとったものだ。ただし、ダンスは下手くそ…(*ノω・*)テヘ!
《神戸のディスコ🌐✨️》
移り変わり含めると70~80年代の神戸に100件以上あった大小のディスコ。顔パスが何よりの自慢😎。男は当然のように女に奢り、女はもてはやされるのがこれまた当然だった。女性同伴でないと入店出来なかったからね。そして当時の音楽が耳から離れない大人もいっぱいいる。
神戸初のディスコは1967年のプレイゴー、続いてディノ、横尾忠則さんデザインのメイドイン日本、花隈45などが70s前半までに。もう既に高校の同級生だった”司“は全て制覇していた。おそらく、ディスコ🌐✨️で、ジルバを踊っていたハズだ。今でも司が、エクボをへこませながらニコニコジルバを踊っている姿が目に浮かぶ…( ꈍᴗꈍ) この頃は、レア・アースの❝ゲット・レディ❞か流行っていた。
以降は、五月雨のごとく名を変えスタイルを変え、90年前半バブル期までがディスコ全盛期。上の写真は、ディスコガールやスーパーマンの登場したセキーナ、チェリーレーン、アルバクラブ、45、キサナドゥ、海賊の館、ル.キャステル、カルチェ・ラタン、キウイ・クラブ等もあり、おいらは全て制覇した。そのうち神戸では我慢できなくなり、大阪ミナミのスピーク・イージー、葡萄屋、ジジック、スタジオ・ムッシュまで遠征し、挙句の果てには、新宿『ツバキハウス』や、六本木の『Xanadu』まで遠征した。ただし、ダンスは下手っぴ🕺だった。ダンスは下手くそでも構わないのだ。楽しければそれでいいのだ。
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つんくは70年代のディスコ音楽が好きみたいですね。
この曲のタイトルもそうだし、ジンギスカンみたいに「ウッーハー、ウッハー」言っている曲もありました。
ディスコがほぼなくなった90年代後半にキャッチーなサウンドで踊って歌える曲を作ったのは着眼点が素晴らしい。
そろそろ高齢者向けのディスコも流行るかもしれませんね。
モー娘のあのヒット曲は、このタイトルから取ったのはミエミエやもんね。
実際に三宮のセンター街が巨大ディスコになった。
https://news.kobekeizai.jp/blog-entry-1289.html
たまに我を忘れて踊り狂うのもいい心のデトックスになるかもよ?
ワムのラブマシーンもなかなかですよ
ジョージ・マイケルは上手いですね
原曲に忠実やもんね。やはりジョージ・マイケルはR&Bブルー・アイド・ソウルのシンガーやね。