🌟 ̖́-上を向いて歩こう🌟*.゚🎙️坂本九
作詞:永六輔
作曲:中村八大
アメリカ合衆国🇺🇸のビルボード(Billboard)誌では、1963年6月15日付においてHot 100週間1位👑を獲得!
同誌の1963年度年間ランキングでは第10位にランクイン。
ちなみに同年、年間ランキング1位は
“Sugar Shack“でありシンガーは、Jimmy Gilmer and The Fireballsだった。
1961年7月21日、サンケイホールで開催された『第3回中村八大リサイタル』で、坂本九🎤の歌唱によって初披露された。
坂本九はリサイタルの2時間ほど前に初めて譜面を渡され、ぶっつけ本番で初披露した。
その際、譜面では4ビートなのだが、坂本はそれを8ビートでアレンジして歌った。また、曲中マイナーになる部分があるが、坂本が外してマイナーで歌ってしまったため、マイナーになったという説もある。中村八大は、歌手がたまたま音程が外れたり、アレンジしたものが面白かったらその場で譜面を書き換えてしまう大らかさがあった。
同年8月19日、NHKで放送されていたバラエティ番組『夢であいましょう』でテレビ初披露。
同番組において、1961年10月・11月の「今月のうた」として発表され、同年10月15日にレコードが発売されると爆発的なヒット‼️となった。
発売から3か月で30万枚を突破!
売り上げだけを見れば相当なものであったが、当時最も新しく不良の音楽とされたロカビリー(現代でいうロックンロール)出身の坂本九の独特な歌い回しが耳に合わない当時の保守的な日本の歌謡界においては評価は高くなかった。
日本レコード大賞にも選ばれていない。
だが、この評価は世界での大成功により覆された。
坂本九は本楽曲で1961年の『第12回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たした。
また、2000年の『第51回NHK紅白歌合戦』の第一部終了後、紅白に出演していた時の坂本九の映像のもと、出場歌手によって「上を向いて歩こう」が大合唱された。
若い時はこの曲の良さが全く分からなかった。
いつ頃からか、この曲の良さが分かるようになってきた。
特にイントロの木琴のおおらかさがなんとも多幸感⋆⸜❤️⸝⋆を醸し出すのだ。
国境を超え、言語を超えて世界で愛されたこの曲は凄い!ニューミュージックやシティポップと呼ばれる曲にはないこのおおらかなメロディ~が人々の
の心に🤍優しく触れるのだろう。
それと同じように国歌である”君が代”にも言えることでオリンピック\(*´∨`🇯🇵)/fight!!やサッカー⚽のワールドカップ等のスポーツの祭典で聴くと、なんとも心に染みるのだ。
みんなもそうじゃないのかな?( ´◔‸◔`)
大人になったら解る事が色々あるのだ。
カラオケ🎤で、友人に「何か歌えや!」と、促しても「いや、歌える歌ないねん( ´•ᴗ•ก)💦」って言うヤツに「君が代でも歌っとけ!」と、よく言ったもんやけど、歌わすのが勿体ないのでこれからは自分が歌います。(˶ᐢᗜᐢ˶)
“君が代”曲入ってるよね!?(੭ ᐕ))?
《Sukiyaki 🌍チャート最高順位》
🇯🇵1位(3か月連続、ミュージック・ライフ国内盤ランキング)
🇺🇸週間1位(3週連続、全米ビルボード)
🇺🇸週間1位(4週連続、米国キャッシュボックス)
🇺🇸1963年度年間13位(全米ビルボード)
🇬🇧6位(全英チャート)[1]
🇦🇺1位(全豪ケント・ミュージック・レポート)
🇨🇦1位(カナダ、RPM)
🇳🇴1位(ノルウェー、ヴェーゲー・リスタ)
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私の幼少期は坂本九の「レッツ・キッス」がやたら流行っていて、小学校でも先生の指導のもと、全児童が踊らされていました。
今になって考えてみると「キスしようぜ!」という歌を先生が薦めていたというのは、凄いことですね。
マリリン・モンローの映画で邦題は「恋をしましょう」とかいうのがありました。原題は「レッツ・メイク・ラブ」でした。
中学生の頃は何とも思いませんでしたが、今思うと過激な題名ですね。
清原果耶がそんな題名の映画に主演してたら、ドキドキしてしまいますね。
確かに「さあ~!キスしようぜ~((( *´)` )チュッ」って歌詞やねww(^○^)ww
正確には”レットキス”というタイトルだった。
これはジェシカというフォークダンスのときにかかる音楽だったよね。
コロブチカ、マイムマイム、オクラホマミキサで踊るダンスがそれぞれ別だったのを覚えてる。
外国の民謡やったかな…
フォークダンスはドキドキしたよね~
好きな子が次に控えていて「キタ━(゚∀゚)━!」と思って手を繋ごうとしたら、別の曲がかかっていきなり逆回りになったりで…(笑)
女子の人数が足らんかったら、野郎が女子の代わりをやったりして…(笑)
「何でお前やねん‼️」って話しで…(笑)