小田和正が、アーティストへ共演の依頼を綴った一通の手紙から始まった『クリスマスの約束』
2001年の放送開始から24年を迎え、放送20回目の節目とも言える今年は、小田の地元である横浜のKT Zepp Yokohamaで収録が行われた。自身初となるKT Zepp Yokohamaの会場には、番組史上最高となる20万枚を超える観覧応募ハガキの中から抽選で選ばれたおよそ1,000名が集まった。
収録当日、番組冒頭では小田から「大事な話」があるとして、自身の口から今回が最後の放送になることが伝えられた。1回目『クリスマスの約束2001』の1曲目に歌った❝言葉にできない❞や観客と一緒に声を合わせて歌う❝たしかなこと❞ ほかにも『クリスマスの約束』20年間の歴史を振り返る貴重なアーカイヴ等、洋楽邦楽を問わず、次世代に歌い繋ぎたい名曲の数々を余すことなく届ける。初回放送時、番組のテーマである「アーティスト同士が称えあう」ことを歌った書き下ろし曲❝この日のこと❞を最後に披露し、ステージを降りた面々だったが、会場のアンコールに応え小田がステージに登場。❝キラキラ❞ ❝ラブ・ストーリーは突然に❞を観客と共に会場全体を巻き込みながら大合唱。鳴り止まない拍手の中で収録を終えた。
この『クリスマスの約束』は、2001年に「全く新しい形の音楽番組を作りたい」とTBSが小田に持ちかけ、小田をメインアーティストに「アーティストがお互い認め合えるような番組」を目指し企画・制作された音楽番組。
制作に当たり、小田がSMAP、福山雅治、桑田佳祐、松任谷由実、宇多田ヒカル、桜井和寿、そして長年「犬猿の仲」と言われた山下達郎の7組に直筆で出演依頼の手紙を書いた。だが、さまざまな理由でその全てから出演を辞退され、納得できないスタッフを小田が説き伏せる形で単独ライブ形式の公開収録を行ったのが始まりだ。
苦難のスタートとなったが、03年に開始3年目にして初のゲストを迎えた(ゆず、財津和夫、根本要、桜井和寿(ミスチル))。それ以降は豪華アーティストたちと共演。2009年には小田の思いが詰まった番組の象徴と言える合唱第メドレー「22分50秒」が多くの反響を呼んだ。コンセプトは「アーティスト同士がお互いを認め、愛し、尊敬すること」。番組の題字は小田の直筆となっている。
おいらは、この第一回を偶然テレビで観たのが始まりで、小田和正は、本当はその1回だけで終わるハズが小田のライフワークの一つとして今回で20回記念で最後を迎えた。おいらはいつも、偶然にチャンネルを変えたらこの❝クリスマスの約束❞が演っていた事が何度もあった。1年に一度だけの音楽番組なのについつい忘れてしまっていたのだ。旅行に行った2、3回は見逃してしまっているが、ほとんど観ている。特においらが感動したのが、吉田拓郎がゲストの回だ。あの名曲✨️❝落陽❞を観ることが出来たのだ。(≧▽≦)
そして唯一、日本の音楽界で小田和正大先生を「小田君」と呼べる山本潤子さんの❝卒業写真❞と❝冷たい雨❞を聴けた。
オフコースは、1969年の『第3回ヤマハ・ライトミュージックコンテスト(POPCONの前身)』で❝翼をください❞で優勝🏆️し、赤い鳥でデビューした。オフコースは2位だった。その後、オフコースは、ハイ・ファイ・セットの前座だったこともあった。
プライベートでは、山本潤子は小田よりも3つ年下だったけど、「ジジイ」「潤子ババア」と、呼び合っていた位親しい。とても微笑ましいエピソードだ。基本、ジジイは昔から口は悪いからね😁
日本のヴォーカリストで、声が澄んで美しいのは、女性では山本潤子さん、男性では小田君だろう(*ノω・*)テヘ!これに異論のある方はいないと思うけど、あればメッセージで。
声が澄んで美しいのと、歌が巧いのは違うけど、二人とも素晴らしく巧い!と思う。でも、例えばユーミンの❝最後の春休み❞なんかは、山本潤子よりもユーミンの方が少女らしくて可愛いい✨️と、おいらは思う。歌詞に似合う声も大事な要素だ。❝海を見ていた午後❞もユーミンの方がおいらは好きだ。ユーミンの方が、打楽器を使わず曲の静けさが、山手のドルフィン🍴の静かな店内がうまく表現されている。レストランの窓から見える海…まるで時間がゆっくりと過ぎる空間で、別れた彼を一人偲ぶ姿がより伝わってくる。それと、潤子さんが片思いとか、失恋💔とか、しないのでは?という思い込みもあったりするのだ(*ノω・*)テヘ!
『クリスマスの約束』の会場はまるで『Billboardライブ大阪』ばりで、客席にとても近く、アーティストと観客も緊張するような小さな会場だった。その観覧のチケットは何十倍なんやろ??(´ε`;)ウーン…一度は生で聴いてみたかった。ゲストは事前に知らされてないようだ。
Euphoria💟Musicとして、オフコースの鈴木康博は投稿したけど、小田和正はしたことがなかった。嫌いなわけがない!一欠片も毒がない、汚れのない清流✨️のような2人のヴォーカルやコーラスがちょっと軟弱な感じがして積極的に聴いてはいなかった。あまり多くは聴いていないだけなのだ。オフコースは大学の時に❝でももう花はいらない❞から聴くようになった、ヤスさんの曲やけど、古くから聴いていたのだ。
アリスの矢沢透のドラムスが❝ア・デイ・イン・ザ・ライフ❞
でのリンゴ・スターのようで好きだった。
その後、❝秋の気配❞にシンパシーを抱き、❝眠れない夜❞のポップさに殺られてしまった。
おいらのWAVE時代に、日本で初めて100インチのプロジェクターでオフコースのビデオコンサートを企画したり、スキー場で❝さよなら❞や❝Yes、No❞を聴いて感動したりオフコースは、ちゃんと聴いていた。
小田和正氏は今年で77歳だ。そんな年齢で、あの透き通った高音が健在なのには驚かされる!よほど節制してるのだろう。
毎年、楽しく観させていただいていた『クリスマスの約束』が、終わった。小田和正氏はJPOPS界では、”小田先生”と慕われる人格者だ。音楽に関してはとてもストイックで厳格な人だ。それでも先生のような温かい人柄がミュージシャンに慕われているのだろう。
最後に幼馴染の盟友、ヤスさんの登場を期待したが、叶わなかった。凄く残念だ。S&Gのような不仲ではないのに…(ポール・サイモンとアート・ガーファンクルは仲直りしたらしい)
最後にみんなで歌った❝Today❞好きだった。今でもソラで歌える。
年に、一度の音楽番組と言えば、❝紅白歌合戦❞とこの❝クリスマスの約束❞だけど、このうち、大好きだった番組がまた一つ終わっしまった。
見逃した方は、U-NEXTで観られますよ。20年の軌跡のダイジェスト版は必見!
ーPSー
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有料入場者数は5本の指にも満たず…
ジ・オフ・コースという名のグループは最初はフォーク・ソングのカヴァーをしていた。その当時のことをかつて小田和正はぼくに教えてくれた。
“女の子にもてる周囲の奴らは、女性を加えてP.P.Mをカヴァーしていた。俺たちは女の子と無縁だったので、声の高い俺がP.P.Mのマリーさんをやらされたんだけど、女の子のいる本格的なP.P.Mスタイルのバンドが羨ましかったね”
それでもジ・オフ・コースの実力は高かった。1969年、ヤマハ主催の第3回ライト・ミュージック・コンテストに出場し、全国大会まで進み、第2位となった。ちなみにこの時の第1位は「翼をください」の大ヒット!で知られる赤い鳥だった。(この事が、小田和正が山本潤子をリスペクトするようになったのかな🤔…)
すぐにデビューの誘いが舞いこみ、1970年4月、「群衆の中で」でデビューする。小田和正は22歳だった。「群衆の中で」に続いて「夜明けを告げに」、「おさらば」、「僕の贈りもの」と次々とシングルを発表するもののまったく売れなかった。
こんなエピソードを東芝EMI(当時)で1970年代中期、オフコースを担当していたO氏に訊いたことがある。レコード会社が尽力して、札幌の収容人員800人ほどのホールで行うことになり、懸命のプロモーションを行った。が、有料入場者は5本の指にも満たず、スタッフも観客席に座ったが、とても寂しい風景だったという。
現在の音楽シーンなら、そこまで不人気なら契約解除とすぐになるだろう。が、当時の音楽シーンにはミュージシャンを一人前に育てあげるという風潮があった。才能に惚れ込んだのはレコード会社なのだから、何とかしてやろうという意気込みがあったのだ。
ひたすら地方のライヴハウスを回って…
札幌の屈辱をバネにしたのか、オフコースは日本全国の小さなライヴハウスを精力的に回り始めた。5人、10人という少ない観客の中からライヴを始めて、徐々に人気を積み上げてゆくスタイルは当時の主流であった。現在のJ-POPシーンのようにYouTubeなどのSNS、ブログなどで自分たちの音楽を広めることはできなかった。
とにかく、ひたすら地方のライヴハウスを回る。このスタイル、叩き上げで育つとミュージシャンには底力が生まれる。小田和正だけでなく、吉田拓郎、山下達郎、細野晴臣、大滝詠一など昭和に人気と実力を育てたミュージシャンは、すべて地道な活動から自己を鍛え上げていたのだ。
《岩田由記夫》